シルクロードの旅(青の都サマルカンドとブハラ・ ヒワ)
永年の夢であったシルクロードの中心地、サマルカンドとブハラ・ヒワを訪れる機会がやってきた。
1996年8月11日から8月17日まで、旧ソ連の中央アジア・ウズベク共和国へ妻と二人で旅たった。
8月11日(日)、午後9時大阪の関西空港からウズベキスタン航空で、首都タシケントへ向かった。凡そ9時間で時差4時間を考慮して、現地時間午前2時にタシケントに着いた。真夜中なのに若い女性がカーネーションを一輪づつ渡してくれる。
我が添乗員西村嬢はトランクの整理等で大活躍。可愛いチャーミングな彼女は骨惜しみすることなく体を動かして良く動く。見ていて気持ちがいい。
やっとやってきたバスに乗って、夜の街を今夜の泊るウズベキスタンホテルへ向かう。
眠い目をこすりながら十五階に行く。太ったおばさんが部屋の鍵をくれる。旧ソ連の習慣が今でも残っているようだ。
冷蔵庫やテレビが装飾品である部屋で、一時間ほどの仮眠を取る。バスタブには止め栓が無く、読んだガイドブックの情報から持ってきたゴルフボールが役に立つ。
8月12日(月)、朝早く起きヒワ汗国の遺跡観光の拠点ウルゲンチ(URUGENCH)へ向かう。飛行場で写真を撮ろうとして警備兵に叱られた。8時発の小さな飛行機で9時20分にウルゲンチに着く。ホテルで寛ぎ、昼食後午後2時にヒワ観光へ出かける。
ヒワ(KHIVA)はウルゲンチの町から30kmの所にあるオアシスで、ホラズム王国の古都だった。キジル・クム(赤い)砂漠とカラ・クム(黒い)砂漠の間をアム・ダリア川がアラル海に向かって流れている。その下流にヒワはある。ホラズム地方には6000年も前から人間が住み、文化の花を咲かせてきたが、そのホラズム地方の中心がヒワである。ヒワはブハラと並んで中央アジアにおけるイスラム教の聖なる都だった。特に町の中心部は昔ながらにそっくり保存されていて、城の中(アルク=内城)が無傷で残っているのは、中央アジアと西アジアを通してヒワだけと言われている。
バスがヒワに近づくと、町を取り囲む10m足らずの城壁が目についた。2000年も前に建造されたものだと言う。この城壁の中へ足を一歩踏み入れると、実に見事に中世の街が残されていた。青い色タイルが強い陽射に輝いているミナレットやドーム。複雑なアラビア模様で飾ったメドレッセのアーチ。石畳が続く道。石で作られた王宮。なんとヒワにはモスクが94、メドレッセが63もあるそうだ。実際に町全体が博物館そのものである。
西村嬢の案内でいくつかの遺跡を廻った。
@ パルワンの門(別名奴隷の門)
100年前までここでは鎖に繋がれた奴隷(白人女性も多かった)が売買されていたそうな。
A イスラム・ホジャーのミナレット
1908年にヒワハーン国を支えたイスラム・ホジャーによって建てられた最初の
メドレッセである。
B タシュ・ハウリ宮殿
タシュ・ハウリは町より離れた所にあるアラクリ・ハーンの住居だった。内部
は、くつろぎの間、謁見の間、ハーレムの3つに分かれている。有名なハー
レムには多いときには163もの部屋があり、常時40人もの美女が住んでいたそ
うな。(同行の男性達は大変羨ましがっていた、実は私も)
C パフラワン・マフムド廟
16世紀のヒワの大臣だったマフムドのお墓。お墓は石棺や壁のいたるところに
青いタイルが敷き詰められて、まるでトルコ石をあたりにばらまいたように美
しい。
D カリヤン・ミナレット
E 監獄
F 夏のモスク
G 見張り台
H ジュマモスク
等である。珍しかったのは、日干しレンガ壁の間に5cm程の麦を詰め、実質上の免震構造を採用していたことである。又、所々の建物に柱が無造作に2、3本突き出ていたが、これは魔除けだと言う。こうしておけば、この建物はまだ完成してないと悪魔が思い、やって来ないからと言う。
中世にどっぷりと浸かったヒワの1日は終わった。 (泊 ジェイホフン・ホテル)
8月13日(火)、今日1日はキジル・クム砂漠を横断してブハラへ行く日だ。キジル・クム砂漠はシル・ダリア川とアム・ダリア川の間に挟まれた大きな砂漠だ。ウズペク共和国の西半分はこの砂漠とも言えるほどだ。キャラバン隊になったつもりで、砂漠の荒涼とした風景、綿畑の様子、照りつく太陽、オアシスの木陰の素晴らしさ、砂漠の中を流れるアム・ダリア川の雄大さを経験させようという魂胆らしい。
9時半、小型バスにて出発。なにもない砂漠の中に1本のアスファルト道路。運転手は車を100kmぐらいで飛ばす。対向車とぶつかりそうになりながら、山羊や羊を上手く避け、反省する様子も無くぶっ飛ばす。「砂漠で妻と二人一緒に死ぬも又仕方なし」とあきらめた。
盛り上がった砂の小山が、海の波のようにうねりながらどこまでも続いている。雲を忘れてしまった真っ青な空と広大な砂漠。だがこの砂漠は写真や絵本で見るイメージと違う。50cm程の葉の無い蔓草のような食物があちこちに、もこもこと群れを成して生い茂っている。この草は地上こそ低いが、地下茎は水を求めて50mから100mも伸びるのだと言う。この草は炊事の際の燃料として、砂の移動防止として大変役立っているらしい。この草の名前はサクサウールと言う。
同行の現地ガイドであるロシア人の青年は、旧ソ連は飛行機からこのサクサウール草の種を蒔き砂漠の緑化と砂の移動防止に貢献したと言っていた。
途中の小さなバザールでビールを買った。大変安かった。アム・ダリア川のほとりでスイカのようなハミウリをいくつも食べた。喉が渇いておりビールも旨かった。
(翌日これがために下痢になるとは思いもよらなかった)
裸足の10歳ぐらいの少年が、100匹ぐらいの羊を連れて歩いているのにぶつかった。
聞いてみると(もちろんロシア青年が)、村から3日ほど歩いて来たという。学校には行っていないみたいだ。ソ連が崩壊して、イスラム化が進み、女性や子供たちが昔のようにこき使われだしたらしい。かのロシア青年いわく、ソ連時代の良かったことは平等に教育を施したこと。(この現象はこの先、いくつか経験した)
道路に沿ってずっと鉄管が通っていたが、天然ガスらしい。日本に帰って調べたら、世界でも有数の産地らしい。この国は将来発展するのではないかと思った。
午後4時半ごろ念願のブハラに着いた。夕食前に民族舞踊を見た。イラン系の美女に感激。タジク人らしい。この世で最も美しい人だと思う。(これ以上言えば妻の機嫌が悪くなる。もっとも別世界と思ってるかも)
汗だらけになったので、シャワーして眠る。 (泊 ブホロホテル )
8月14日(水)、今日は午前中ブハラ市内観光、昼からサマルカンドへ向かう予定。
昔私が中学生の頃、良く口ずさんだ詩があった。
「― ― ― ルクナバートの流れの岸と、モッサーラの花園、― ― ― 酌み人よ残った酒を与えよや ― ― ― サマルカンドもブハラをも ― ― ― ― ― ― 」
この詩も詩人の名も忘れたが、青春の甘い響きだけが私の胸に30年間潜んでいた。
多分、昨夕見たペルシャ姫のような美女が、「もうお体に悪いからこれ以上飲むのは控えては?」とたしなめるに、「もう少し、せめて残った酒でも呉れたら、可愛いお前にサマルカンドかブハラかどちらでも好きな方を与えよう。」
(いつの時代でも酒飲みをたしなめる妻、いじましい自制心のない酒飲みの夫)
シルクロードがブームになるもっと以前の話。私がサマルカンドとブハラにこだわる原点がここにある。
ブハラ(BUKHARA)は昔シルクロードの重要拠点として繁栄し、カラハン朝、ブハラ汗国の首都であったオアシスの町。町の名ブハラは、サンスクリット語の僧院に由来すると言う。5世紀の唐書には不花刺の名で、ソグド人の町として記載されている。チムール帝以後、16世紀半ばまで、ブハラ汗国の王城として栄え、インド、中国、ロシアへの交易路が交差する商業都市として発展した。
19世紀の頃のブハラは、暴君ナスルッラーが恐怖政治を行い、ヨーロッパ人はこの町の名を聞いただけで恐れおののいたと言う。要するにブハラ入りした殆どのヨーロッパ人が殺されたそうだ。
朝の8時からブハラ観光。罪人を塔の上より投げ落としたーー死の塔 カリヤンのミナレット。道の両側の長屋は地下牢であったアルク(内城)。装飾が素晴らしいイスマル・サマニ廟。
バスに乗ったとたん、腹の調子が悪くなる。吐き気がある。力が出ない。昨日のハミウリだと気づいたが後の祭り。折角のブハラが台無しになる。タケルタッシュメドレッセの前の石壇で横になる。妻等が戻ってくるまで、真っ青な空を眺め、小鳥の鳴き声に耳を貸し、うつらうつらと眠る。皆が戻ってきたので一緒にと思うが気力がない。止むをえずバスで寝る。それゆえ私はブハラを殆ど覚えていない。
昼からサマルカンドに向かうバスの中でも殆ど寝ていた。憧れのサマルカンドに着いても食欲がでない。西村嬢が呉れた「おかゆ」は美味しかった。
妻には悪いが明日の為、何処にも行かず早く寝る。 (泊 サマルカンド・ホテル)
8月15日(木)、 今日は終日憧れのサマルカンド観光だ。昨日無理しなか ったのが良かったのか、腹具合の調子は良い。「さあー頑張るぞ!」という気力が出てきた。
サマルカンドは天山山脈から流れ出たガラクシャン川の盆地に位置し中央アジア最古の都市である。サマルカンドとは人々が遭遇する町の意味で、別名「青の都」とも、「イスラム世界の宝石」・「東洋のローマ」・「オリエントの真珠」・「光り輝く土地」とも言われている。
この街の歴史のページをめくると、シルクロードの主役が続々と登場する。紀元前329年、アレキサンダー大王は、当時マラカンダと称したこの街に、マケドニアの大兵団を率いて侵入している。この街を襲った最大の悲劇は、1220年ジンギス汗の侵略である。街は全面的に破壊され、殆どの市民は虐殺された。現在のサマルカンドの北東部に赤茶けた小高い丘がある。アフラシャブの丘と呼ばれ「赤い土」は焼け跡らしい。
この丘から崩れた煉瓦や炭化した木片そして大量の人骨が出てきており、破壊と虐殺の証を持つこの丘の赤い土は、私にとってソグド人の恨みの「赤い血」に見えた。
現在のサマルカンドは草原の王者チムールが自らの都として造営した。この地の人々は「ジンギス汗は破壊し、チムールは建設した。」とジンギス汗を恨み、このマワラ・アンナフルが生んだ郷土の英雄チムールを称え続けてきた。(今年はチムール生誕660年と言うことで大々的な祭りを行うそうな) 旧ソ連時代もこの考えは継承され、モンゴル国でジンギス汗が復活したのは、ソ連崩壊後のつい最近のことである。
まず最初は街の中心レギスタン広場だ。レギスタンとはウズベク語で「砂の街」と言う意味で、タジク語で「中央広場」を意味しているそうな。レギスタン広場を囲んで三つのイスラム神学校(メドレッセ)が建っている。正面に向かって左側が1番古い1420年に建設されたウルグ・ベクのメドレッセ、右側がシル・ドール・メドレッセで二番目に古く、玄関に小鹿を追う獅子が描かれている。偶像を排するイスラムの猛反対にあって、正面のテイリヤ・カリ・メドレッセを建てさせられたとも言われている。
この広場の真ん中で、我が西村嬢は皆の別々のカメラで記念撮影してくれた。
次に訪れたのが中央モスクのビビ・ハヌイムだ。チムールは、サマルカンドを手に入れると同時に、ジンギス汗の血を引くビビ・ハヌイムを妃に迎えた。(中央アジアではハン(汗)になる者は、ジンギスの血を引いていなければダメと言われている)
チムールは愛するビビ・ハヌイムの為に、インドのタジ・マハールと同じようにこの美しい建物を建てたようだ。(現代の私は妻の為に果たして何を建てたらいいのだろう)
このビビ・ハヌイムには次のような伝説があると西村嬢が説明してくれた。
「この建物は妃ビビ・ハヌイムがチムールの遠征中に夫への贈り物として建てたことになっている。しかし工事が思うように進まず、チムールの凱旋前には完成するのが難しくなり、ハヌイムは工事を急がせようとした。この時、ひそかにハヌイムに恋焦がれていた建築家は、工事の完成を条件にハヌイムに一夜を共にすることを求めた。
妃は夫のある自分以外なら誰でも好きな娘を与えようと答えたが、建築家は承知しなかった。そこでハヌイムはいくつかの卵に色を付け、外見は異なるが中身は同じではないかと、建築家を説得しょうとした。しかし頭のいい建築家は、一つの椀にとき卵を入れ、他の一つに蜜を入れ妃の前へ差し出した。見ると、それはまったく同じ物に見え区別できなかった。建築家は、外見は同じでも中味は違うではないかと妃をやりこめた。この殺し文句にハヌイムはついに彼と一夜を共にした。凱旋してきたチムールは愛する妃の頬のアザに気づき、怒って建築家を殺そうとしたが、建築家は逃れて大モスクの青い塔の頂から、鳥の姿になってイランの方向に飛び去ってしまったという。」
一説に、 怒ったチムールはビビ・ハヌイムを青い塔の上から突き落としたとも言われている。
(中央アジアでは、姦通した女性はミレットの上から袋詰めにされ突き落とされるということが100年前まで行われていたらしい)
又、この事からチムールの命令により、中央アジアの女たちは全てクランジャと呼ばれる黒い布で顔を覆うことになったとも言われている。
半ば崩壊していても、目の前にしたビビ・ハヌイムの遺跡に、チムール帝国の栄光の面影を私は強く感じた。
青の都サマルカンドの象徴である王の墓グル・エミル廟、ウルグ・ベクの天文台、「生きている王」といわれるシャーヒ・ジンダ廟を次から次ぎへと見学した。ソグド人の末裔らしい人、多種多様な民族のごった返すバザールは最高に面白かった。妻も私も息子への土産の楽器以外に、ガラクタを買いあさった。
夕日に照りかえるアフラシャブの丘で、30年間胸に秘めた憧れの地に立って、ここサマルカンドへ来て本当に良かったとつくづく思った。
夕食後、レギスタン広場の右側のシル・ドール・メドレッセの中庭で、民族劇を見た。古代都市の廃虚の中で、壮麗なイスラム建築を目一杯使って、歌って踊って、オペラのように物語になっており、途中には火の輪を潜るなど余興もまじえ、民族衣装の劇は理屈無く面白かった。劇のあらすじは恋する若者と乙女が、周りの反対を押し切って、途中の波乱も乗り越えて幸せになるという単純な物語だ。
最後は観客もまじえた踊りの輪になった。(妻も私も恥ずかしくてよう踊れなかった、情けない二人)
夜、サマルカンド・ホテル内の画廊で売り子に出ていた女流画家の絵を数点買った。
ウズベク共和国(サマルカンド)の芸術と未来の為に、日本との架け橋になれるよう願って彼女と握手して別れた。 (泊 サマルカンド・ホテル)
8月16日(金)、 朝食後バスで再度首都タシケントへ向かう。一直線の道路の両側は放牧場らしく緑あふれている。この辺りチムールの庭とも呼ばれ農耕地帯にしていたらしい。灌漑用の水路には水がほとばしるように流れていた。
ここに来る前に、ニフテイーサーブのニュースで「アラル海の環境汚染は、旧ソ連の無策と環境汚染による」と読んだが、実際に来て見れば多少ニュアンスが違うみたいだ。
砂漠の緑化の為に灌漑用水路をあちこちに造り、砂漠をかなりの部分緑地帯に変え、重要作物である綿花栽培の為、沢山の水を使い、人々の暮らしを豊かにしてきたことが、一概に環境破壊と決め付けて良いものかどうか真剣に考えてみる必要がある。
この議論は捕鯨の問題と相通じるものがある。たしかにシル・ダリア川とアム・ダリア川の水がアラル海に流れ込まず、途中で消えているのは灌漑の為もあろうが、過去歴史的に見れば、アム・ダリアはカスピ海に流れていたこともあり、幻の消えた湖の例もあるように、砂漠の流れは悠久の間に時々流れを変えていたらしい。水の流れが無くなれば塩分のみ残り、土壌が荒れ果てるのは、文明の発祥地がことごとく滅んでいったように、又最近のヨーロッパやアメリカの土壌流出の例からも明らかである。
やはり偏見を持って物事を見れば判断に間違いを生じる。実際に自分の目で、耳で確かめるのが一番だ。
途中でハニー・バザールに寄り、蜂蜜一本非常に安く買った(一本100円ぐらい)が、バスの中で割ってしまった。(運転手さん、掃除させて御免なさい)
そこから少し行ったところに、チムールの砦跡があった。ガラスの破片を投げて「願い事をすれば良いことがある」との西村嬢の話で、妻も私も力一杯洞窟の横の壁に向かってガラスを投げつけた。ストレス解消に丁度良い。
トイレ休憩を兼ねた途中のフイッシュ・バザールで、豚肉入りのシチュウを食べたが美味しかった。半日かかってやっとタシケントに着いた。昼食後タシケント市内観光に出発。
タシケントは中央アジアの文化・政治・工業の中心地でウズベク共和国の首都である。中央アジアで唯一地下鉄の走る都市でもある。話の種に6スム(約30円)払って地下鉄に乗ったが、それはそれは奇麗な、柱や天井は彫刻だらけでシャンデリアもあるという宮殿のような場所だった。もし中央アジアで何かあれば、防空壕の役目と、臨時の政庁にと考えたのかも知れない。
タシケントの街は、秋に予定されているチムール生誕660年の祭りの準備一色だった。チムール広場・勇気記念像・独立広場と廻り、ナボイ劇場に着いた。この劇場は第二次世界大戦後タシケントに抑留されていた日本人捕虜の強制労働によって造られたそうな。シベリアと違って捕虜の待遇はかなり良かったみたいだ。
歴史博物館にも入ったが、西村嬢の説明が詳細を極め、時間もかかり、少々うんざりとする。同行者も皆そのように思っていたみたい。若い西村嬢はハンサムなロシア青年に気兼ねして、彼に気に入られるように一生懸命説明していたみたいだ。どの世界でも恋は盲目と言うがそのようだ。
ホテルに帰りしなレーニン広場(レーニン像の替わりに地球儀が飾ってあった)で、若い女学生達がきゃきゃ言いながら歩いていた。ビデオや写真を撮っていると寄ってきた。同行の踊りのお師匠さん(?)が写真の送り先を聞くと、「どうも有り難う!」と言うではないか。聞けば日本語学校に通っているらしい。
この国と日本の親善の為、一働きしたい気持ちになった。
タシケントホテルでの夕食は「さよならパーテイー」となったが、皆の自己紹介も無く、西村嬢もそわそわしており(ロシア青年との最後の夜を気にして)、なんとなく盛り上がらなかった。
ただデイナーショーでイラン系の美女がペリーダンス(お臍丸出しの腰をくねくねさしながら)を踊ったときは、私だけでなく男性は皆前に行ってかぶりついて見ていた。
ウズベク最後の夜、チムール公園の並木道をライトアップしていると言うので、妻と一緒に散歩した。日本の夜店のような店が並んでいた。魔除けのブローチ等を会社の女の子の土産にいくつか買った。
途中であのロシア青年と腕を組んでいる西村嬢を見つけたが、邪魔しないように直ぐに別れた。
(泊 ウズベキスタン・ホテル)
8月17日(土)、 朝5時ウズベキスタン航空で日本に向かって飛び立った。途中、窓から雪を被ったパミール高原の山々が見えた。
8時間かかり時差4時間入れて、関西空港に夕方の5時に着いた。
久しぶりの日本、空港でうどんを食べて、娘の待つ我が家に帰った。
今回のシルクロードの旅、サマルカンド・ブハラ・ヒワという中央アジアの主要なオアシス都市を巡った旅は、私の胸に30年間潜んでいた想いを一気に実現してくれた。
シルクロードの東の端、奈良に住んでいる私は、ライフワークとしてこのシルクロードを全て踏破したい。ベニスにマルコポーロの家を見、万里の長城から西域を覗いた私たち。今後幻の湖ロブノールやトルコ、そしてシリアのパルミアと行きたい所は一杯ある。
(1996.8.20)
終わり
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