ルーマニア2
2014年6月14日(土)、
中欧で唯一ラテン民族の血筋を引いているルーマニアの人々。
人々は陽気で明るいそうな。


ブルガリアの国境の街ルセからドナウ河を渡りルーマニアに入った。
ルーマニアの通貨はレウ(lEU)、2005年にデノミが実施され、現在レウは新ル0マニア・レイ(LON)と表記されている。1RONは約30円だった。
ルーマニアに入って、首都ブカレスト目指してバスは走る。
途中のレストランにて昼食を摂り、ブカレストへ向かう。
ルーマニアの首都ブカレストは、カルパチア山脈の南に広がるワラキア地方の南東部に位置する。
人口は約194万人。20世紀初頭には、「バルカンの小パリ」と称されるほど美しい街並みを誇っていた。
しかし、第2次世界大戦では枢軸国側についたことで連合国側の攻撃を受けた。
その後の共産主義政権時代は労働者の住宅を優先させ、計画的な街づくりが行われた。同時に公園等緑が多く配置され、市民にとって憩いの多い街となった。
1989年12月にはルーマニアの政変があり、大統領だったチャウシェスクが退陣を余儀なくされ、処刑された。
巨大な国民の館はチャウシェスクが遺した夢の跡のようだった。






ブカレストでは約3時間の市内観光があった。
まずマゲル通りの革命広場に行く。広場の周りには、共和国宮殿、アテネ音楽堂、旧共産党本部、高級ホテルヒルトンがあった。
チャウシェスクが当時の共産党本部で行った最後の演説で、聴衆の反発の声に絶句するシーンは、世界各地で繰り返し放映された。私も見た記憶がある。
歩道には当時の様子の写真が飾られていた。
チャウシェスクの贅沢の見本と称されている「国民の館」を見学した。
部屋数は3107もあり、世界の公共建物で、アメリカのペンタゴンに次ぐそうだ。室内は豪華賢覧で、チャウシスクの贅沢ぶりのみが過大に宣伝されているような印象があった。
建物の材料は全てルーマニア産のものを使用しており、国威を世界に宣伝するために造ったようだ。
彼の個人的な住居は市内にあり、今はどこかの国の大使館になっているそうな。
大きな凱旋門も見学したが修理中であった。



















東欧の異端児とされていたルーマニアはソ連の影響を少なくし、フランス等西欧諸国とも交流していた。
フランスのドゴールが訪れた場所に彼の像が建てられ、公園の名称はドゴール広場となっていた。
本日の宿泊は「ラマダブカレストパーク」だった。夕食はホテルで摂った。
2014年6月15日(日)、
本日はカルパチアの真珠と呼ばれるシナイアへ行く。
ブカレストから近いので、夏は避暑地、冬はスキーリゾートとして沢山の観光客があるそうだ。



まずシナイア僧院を見学。
門を入って正面に見えた大教会は、19世紀にドイツから招かれてルーマニア王国の国王になったカロル1世が建立したもの。
教会のフレスコ画は素晴らしかった。


続いてペレシュ城を見学。
1875年にカロル1世がルーマニア王室の夏の離宮として、8年の歳月をかけて建てた宮殿。
ルーマニアで最も壮麗で美しい城と称されるだけあって美しかった。
数多くの彫刻、噴水が配置された庭園からのシナイアの渓谷が一望できた。





レストランにての昼食後プランへ向かう。
吸血鬼ドラキュラのモデルとなった「プラン城」を見学。
門前は凄い人並みだった。






沢山の土産物屋が軒を連ね、芸人達が路上でパフォーマンスを繰り広げている。
日本の嵐山の観光地みたいに混雑し、ありきたりの同じみやげ物ばかり眼についた。
ドラキュラ関係の展示は少なく、博物館のようだった。
現在のルーマニアにおいてドラキュラはトルコと戦った英雄として見られているみたいだ。
ドラキュラ自体にさほど興味をもっていなかった私は中世のお城を見学したような気持ちだった。
観光後ブラショブへ向かう。
途中のレストランにて夕食後ホテルへ向かった。
今晩のホテルは「ラマダブラショフ」。
2014年6月16日(月)、



本日はプラショフ観光。
中世の面影を残す古都。
生憎の雨だった。街の中心に聳え立つ、高さ約65mの後期ゴシック教会の「黒の教会」。
ルーマニア正教の教会である「聖ニコラエ教会」。街中を散策し、ブカレストへ向かう。
ブカレストのレストランで最後の昼食を摂り、空港に向かい、カタール航空にてドーハ乗り継ぎ帰国した。



2014年6月17日(火)、
17時半頃に関西空港に帰ってきた。
(記述日2014.10.16)
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